過去のコラム

2003年9月以前

2009/12/22(TUE)
2703)サイトのご案内
半年程お手伝いをしていたものづくり企業グループのホームページを公開しました。来年初にもうすこし肉付けしていく予定です。

http://www.hachioji-ijj.com/

写真はFPJの取材時に僕らが撮影したもの。プロには叶いませんが臨場感があると思います。いくつか技術の利用例も試作に入りました。サイトで紹介の予定です(202).



2009/12/18(FRI)
2702)恩師の退官
大学時代の研究室の恩師が来春退官する旨連絡があった。

僕が在籍中は40代後半でたしか50歳のお祝いをした記憶がある。結構やりあったけど、先生が退官されると伺うと、残された若い(って若くもないけど)僕らががんばらないといけないな、、、と当たり前の感傷に浸ってしまった。

また、これまた母校で退官間際の滝澤先生(構造解析学の先生)が大著を上梓したので、OBに宣伝せよとの指令あり。意匠系だった僕にまでメイルが来たため構造事務所の方に紹介文を書いて転送。

僕が在学中は北大にはコンクリートの城先生、解析学の滝澤先生など個性的な先生がたくさんいらっしゃり、いずれもかなりスパルタでした。

滝澤先生の授業は、学部レベルでいきなりテンソルや偏微分方程式が等がでてきて、僕にはまったく理解できず、、、、というかついていける学生が年に一人いればいいくらいの難易度でした。そんな訳で、定期考査も全員落第で、単位取得の為に、各人めいめい先生と面談しレポートを書いて単位をもらうのが通例となっており、私は鉄骨構造の系譜をギーディオンや渡辺さん坪井さんの著作から抜粋しなんとか卒業させていただいたのが思い出されます。城先生の授業も弾丸の様なトークと板書で一時間半の講義で大学ノート7~8枚もノートをとったでしょうか?これが半年続くとノート二三冊にもなります。今、学校で教えてみると、講義の前夜は徹夜なんか当たり前なので、こうした密度の高い講義をすること自体がかなりの労力を伴っていたと想像できます。

卒業後就職したアトリエでは木村俊彦先生に構造をご指導いただくことが多く、必然的に、苦手だった構造にも関心をもつことができました。打ち合わせの際、出身大学の話をすると、振動理論では滝澤先生が、コンクリートの解析手法では城先生は大変有名とのお話しで、在学中にもっと構造勉強しておけば、、、と当時悔やんだものです。当時の北大には環境計画の荒谷先生や、農村計画、建築計画等マルチな実績を残された上田先生、いつもガリバンで刷った様な軽妙なコラムの様な文章と図版を併置した資料を配布された近代建築史の越野先生など、戦中戦後期に大学に入学した先生が数多くいらっしゃり、個性的な授業を学生のレベルとは無縁に勝手気ままにやっていた印象があります。


本日は授業の成果品が宅急便でおくられてきたので、総評と採点をして返却。そのあと住宅案のツメの作業。

つらつら作業をしていたら、知人が昨日の一級の合格発表で惜しくも合格を逃し悲しそうなメイルを書いて来たので、かける言葉もないながら電話をして勇気づけ、気がつくともう午後4時。あと一時間で娘を迎えにゆかねばなりません(202).


2009/12/10(THU)
2701)講評
今日は段ボールのプロダクトの講評会でした。

具体的(学生が自分で作って体験できる)なテーマで、広がり(流通)もあるものだったので、意外な方向に着想を発展させてきたチームもありなかなか見応えがありました。

トム・ディクソン派(勝手に命名)のチームはとっかかりの見つけ方が抜群だったので、結果も予想通りと思いきや、試作の結果強度面の不具合がみつかり、改善案を講評会の最中まで切り抜いていました。出席番号で講評するのでこのチームは3番目だったんですが、がんばっていたので最後にし、他のチームの講評を先行。講評会の終了間際に完成したので、試用するも、改善案も強度的にアウトでした。なんだか可哀想なんだけど、最後まで粘った努力や粘り強く試作を繰り返した努力は素直に評価したいです。作図等のスキルが一番バランスとれていたチームなので、作図先行になってしまい、自分たちが現時点でつくれるものと構想したものの関係がすこしずれてしまったんだと思います。

他の3チームの内、2チームはあまり手が動かずに行き詰まってしまう(頭で考えるタイプの)人達でした。なので、すこしヒントを出して、単純化したものを作ってもらいました。実際座ると論より証拠でいろいろな発展形のディスカッションができました。こういうときは視点を変えるためにまず単純なものを作ってもらうに限ります。

実測の際にマッキントッシュという建築家のデザインした椅子(ヒルハウス)を選んだチームがありました。今見ると造形的に古くさいというか、いい意味で古さのある椅子なのですが、あえてこれを選んだ訳です。そもそも、町工場で作れて、一般ユーザが日常生活で使える椅子をダンボールで作ろうという課題なので、マッキントッシュの様なフォーマルな椅子を選んだ理由を聴くと、「背の部分がハシゴみたいなのでいろいろ引っ掛けることができると思う」と言われてのけぞりました。歴史的経緯はともかく、形の解釈(でも、すごくエキセントリックなんだけど)は当人同士でできているので、その線でダンボールに置き換える様に指示したのですが、結果かなりのダークホース。木製家具の仕口をダンボールに置き換えて、マッキントッシュの造形を再現したばかりか、素材がいい意味でショボクなったので、たしかにハンガーの様になりました。自分たちの解釈を実現するときは製作も気合い入るみたいで、カットの精度もホゾの勘合もかなり上手に作れていました。

子供の様な自由な解釈にうなだれ、また、最後に女神が微笑むのはこうしたアプローチだなと思いました。製品としてのリアリティやコストバランスは既存の技術を下敷きにしていた「トムディクソン派」の案が秀逸なのですが、マッキントッシュ派はあるいみ愚直に自分たちの視座でかたちと素材を結びつけたと言えると思います。

「楽しいのでここんとこ、他の課題そっちのけで段ボールについて考えてます」っていってくれた子が居てある意味マズいけどうれしかったです(202)。


2009/12/02(WED)
2700)演習
今日は大学で演習。

今回は段ボールで椅子を作ってもらうことにした。

教材室にある椅子の実測を行い、実測値でボリュームを起こす。このボリュームを元に展開図を作成し、各班に割り当てられている段ボールで実寸模型を作るというもの。展開の仕方は予めインターネットで段ボール工場のサイトをみて加工法を調べ、調べた内容を活用する様に指示しています。

この演習の第一関門は、自分の気に入った椅子を実測して製作した「ボリューム」をどういう方法で展開していくかということです。今日は実測値とボリュームの部分までの進捗確認でしたが、展開していくときには「折る」「貼り合わせる」「切る」「差し込む」といった工法の種類のどれを選択するかにより「無数」の方法があるしどれを使うかによって強度上の配慮のあり方も変わるので学生も手が止まる模様。授業中さりげなく助け舟を出し、来週はいよいよ実寸で試作品を作ります。

原理原論の授業って結構退屈なのと、あまり成績に差をつけたくなかったので、どんな解法でも成立する様な課題作成をこころがけました。

僕自身、受験勉強の記憶も新しい頃は、世の中には「正解」があると思ってました。しかし実際は「正解」なんかこの世のどこにも無くて、物事のありかたは、、例えばものづくりで言えば、使い方(狭義のデザイン)/作り方(技術)/伝え方(流通)の3つの要因の結びつきの中で決まって来ます。これらの組み合わせで無数のまとめ方がでてくるのが面白い点で、この「まとめ方」が広い意味でのデザインです。また、本当に新規なものは、これにとらわれない第4の要因の様なもの無いとでてきません。

なので今回はかなりゆるい授業になってます。責任放棄かもしれないけど、学生次第。筋道を確認し、すこし背中を押してあげるだけにしています。

ガッツのある学生はいるもので、スーパーのわさびの陳列台を探して来て、これを変形させ椅子にすると発表しました。僕も含め一同唖然としましたが、確かめてみると大変強度もあり、流通性にすぐれ、かつ造形の自由度も高いです、、、いわば非の打ち所がありません。かなり完璧。何より自分と社会の結びつきを身近なことを観察して見いだしてきた点が素晴らしいです。この人はセンスがあるなと思う。簡単にいえば、夢中になって椅子のことを考えてスーパーマーケットに行った辺りが彼の勝因だと思いました。アプローチが完全にトム・ディクソン!

来週どんなのができてくるかかなり楽しみです(202).


2009/11/25(WED)
2699)子供と遊ぶ
子供と絵をかいたり、工作をしたり、ブロック遊びをしていて気がついたのだけど、子供って、部分から考えるというか、部分しか考えていない。

例えばお絵描きをするとき、大人は輪郭を書いてから細部を書くけれど、子供の場合は人の顔をかくときも鼻なら鼻、目なら目という具合で目についた印象的な部位から書き始める様だ。ブロックで遊ぶときも、僕はどんなカタチが作りたいかある程度考えてから組み立てるけれど、娘はただ愚直に積み重ねていく、、シール遊びもそうで、ストライプとか市松とかいうパタンを初めに考えるわけじゃなくて、一枚一枚はりつけて行って、最後にひどく不思議が模様になる。

こういう遊びの経験は、実は親にも楽しい。

例えば雲がドーナッツに見えたりキリンに見えたりする様に、絵をかいたり、ブロックで遊んでいると、あるものがあるものに変わっていったり、とりとめもなく変化していく。デザインの仕事でいい案でない時なんか、逆に子供が先生の様にみえてきます。全体形や完成形を予め用意するのではなく、部分的なことの積み重ねだけでモノがつくれたら結構素敵だと思う(202)。


2009/11/22(SUN)
2698)理科年表 平成22年 机上版
毎年この時期になると発刊されます。 アマゾンから案内が来たので発注。

これと翌年の建築基準法法令集を買うのが恒例になっています。理科年表は様々な物性値がでているので大変やくにたちます。活用法の解説本もでています(202).


2009/11/07(SAT)
2697)深澤直人を解体する
展覧会の図録が届きました。ちょっと印象派っぽくてやってることのすごみがでてこないなあと思いました。そりゃあ奇麗な写真だけど、一応展覧会なんだからもうちょい踏み込んだ内容を期待してしまいます。故にがっかり、、、商品カタログみたいな感じでした。

以前,「デザインの輪郭」という書籍がありましたが、この本と一緒のアプローチである様に感じられました。意図的かもしれませんが、これほど、出来上がったもののフォルムのみでその実現の苦労が世にでてこないデザイナーも稀だと思います(講演などではちょこちょこ触れているれど、出版物ではフォルムばかりが取り上げられています)。もしこのことは織り込み済みで作者が計算しているとしたらちょっとずるいなと思うし、編集者やプロデューサがかたち(結果)しかみてないとしたらもうすこし切り込んでほしかった。

深澤さんは無印の家電のデザインで有名ですが、お手頃な価格のをバラしてみると本当によく考えられてます。高いのは分解できないけど、安価なものは分解してみたことがあります。インジェクション成形の筐体の裏側みると、工夫してる様子が(金型の割とか)丸見えになってます。眺めてみると、ここはスライド金型つかってるのね。とか、不都合でる部分の逃げはここでとってるのか、、とか、、、これをマニアックと思うなかれ、、、形が人に近づくためにはの技術的な解法(ブレイクスルー)に深澤さんがものすごく気を遣っていることがわかります。また、たまたまプラマイゼロの加湿器作ってる塗装工場でintvしましたが、まあ簡単にいえばプラモデル作る感じというか、量産品ではあり得ない手間をかけてアイデアを実現しています。 お大げさに書くと、 電卓や秤一個で建築並みの検討が為されています。そこで試みられているいくつかは技術はもうすこし先の世の中で一般化されていく種類のイノベーションかもしれません。

ヨーロッパやアメリカで自作をみてもらうとき、一般のバイヤーですら、「これはどうやってつくるんだ」「ここんとこすごいんだけどどうやってるの」なんて質問をしてきます。こういう「どうして」「どうやって」という質問が多い展示はある意味成功です。また、逆の立場で会場で気になったものに技術的な質問をすると、販売員ですらきちんとした答えをしてくれて驚くことも多々あります。販売用の資料を準備せよという依頼の場合も技術的な内容に触れる機会が多くなります。つまり、あるいは形状や使い方に技術がどのくらいフォローアップしているのかを吟味しようと意識が広く浸透している様に思われます。これは日本のPDの世界でない様に思え残念です。もうなんつーか「商品」の宣伝とくらいにしか考えていないのでは?と思えて来ます。

デザインというのは思想だといわれています。これに反論する気はないけど、思想というのはそれ自身を独立して抽出できる様な性質のものではありません。むしろ、形而下の様々な問題を解いているからこそ普遍性を増し、このことによって思想が思想たりうることを担保されていると僕は思う訳です。概念だけがうわすべりしてもモノとしては成立せず、成果品だけをみてもごく一部しか思想はつたわらないだろうと思います。 そこを橋渡しするなにがしかのきっかけがあります。技術はこの一例です。

この様に仮定すると、よいデザインとは、具体的な問題へのまなざしとその実現のための誇大なの問題の束を逐次解いてはじめて生まれる輪郭の総体である様に思えてきます。製品の成り立ちを紹介するためには、多分こういうことを伝える言葉を見つけ出さないといけません。ところがぼんやりぼかした製品写真と短いセンテンスがあるだけの紹介だと、このことを隠蔽しています。これは不幸です。世の中での製品の生産性が高まり、個々人がめいめい好き勝手にお気に入りのものを選び、時には作り、使う様な世界がもう一歩手前まで来ようとする時、商品カタログみたい本では不十分だと思います。

作る思い、使う思いという言葉の広がりが一個の製品からでも感じられるということがモノガタリのあり様でしょう。また、それを解像度高くつたえるのが編集者なりプロデューサの職能です。例えばかたちだけではなくプロセスを解像度高く伝えることからも作者の思想はよりつたわる様にも思えて来ます。建築に比べこの部分がPDでは脆弱だと思いもします。けっこう技術的な知識のバックボーンが必要だから、こうなっちゃうのかな。 まあ特殊なデザイン観なのかもしれませんが、デザインを如何に伝えるかという難しさがあらわれている様に思います。

まあ、ものさえ売れればいいのでしょうが、言葉のレベルで作者の試行錯誤を受け止めることのできる第三者が不在なんだろうなと思いました。

※せっかく届いた本が「印象派」だったので怒って書いた文章です。
※ポジショントークなので特定の人云々の話では有りません。


2009/10/22(THU)
2696)ものづくりの仕組みを「デザイン」する
僕は建築設計の仕事に加え、建築仲間とファクトリープロジェクトというLLPを共同主宰しています。FPJでは個々の事務所じゃできない仕事に腰を据えて取り組もうと思っています。

今は東京都のSさんのご紹介で八王子のものづくり企業4社のコンサルをしています。ものづくり企業といっても工芸品を作っている訳ではなくて、医療機器の部品や自動車用部品などかなり専門性の高いものを製作している工場の方々です。お声かかりの直後、FPJのメンバーが日参してまとめた記事が下記にありますので、興味のあるかたはご覧ください:

http://www.factoryproject.jp/project/no10.html
http://www.factoryproject.jp/project/no11.html
http://www.factoryproject.jp/project/no13.html
http://www.factoryproject.jp/project/no14.html

みなさん二代目で年齢も僕らと近く、何か自分たちで新しい事をしたいと集まった方々です。一年弱、新機軸を相談しあいながら自分たちで活動し、問題点が見えて来た時点で僕らに声がかかりました。補助金行政と揶揄されるかもしれませんが、こういう経過を行政マンがきちんとみていて、所謂プロデューサやコーディネイト機関を介さずに僕らを引き合わせてくださったことにやや感動しました(東京都の助成は3年なので、単年度のものよりは、進め易いのかもしれませんし、行政マンが横浜なんかよりは優秀です)。とはいえ、業種も経営規模も様々ですから、一体なにを提案したものか初めは大分戸惑いました。

そんな訳で何を共同できるか?どういったことなら役にたてるのか?と考え、きちんとしたコンサル契約のメニュー出しや擦り合わせに約4ヶ月くらいかけ、この7月より正式契約を交わして概ね月一の会合をもっています。

何をやるかというと、ちょっとこれまでとは違って、技術発信をメインにすることにしました。このためにホームページを作ります。また、デザイン案は製品という形態ではなく、技術の利用例とすることにし、FPJ部内でも個人の作品としてではなく、もうすこし匿名的なデザインのものを共同のクレジットで出して行こうということになりました。会社の事情はそれぞれなので、なにかその結びつきの固有性がものづくりにも表れてくるとただこぎれいなもの作って売っておしまいにならないかなあと思ってのことです。

わがままを言って試作の経過等を相談しあうBBSをサイト内に設けたので、試作の状況、問題点もかなりリアルタイムに意見交換できます。

何をするにも、時間とお金、そして期間中走り抜けるだけの目標設定、途中途中での密なコミュニケーションが必要です。このとき、一介のデザイナーがきちんと普段の仕事とちょっと違う分野まで筋道をつけて、対価を計上して、共通の目的にむけて走り切るの土台づくりをするというのは、すこし大変でした。しかし、こういうすったもんだを経て仕事を開始すると、以前よりも仕事がやり易いなあと思います。個人の作品づくりとは別にFPJではこういう仕事の進め方を大事にしたいです。

ものを作る仕組みをデザインするという感じ....(202).


2009/09/29(TUE)
2695)こころ
先日産まれた次女の名前は「こころ」にしました。

こころといえば漱石です。僕は漱石がかなり好きで、「三四郎」を中学生くらいで読み(遅い?)高校の頃は「こころ」や「それから」、「門」という具合に読み進め、多分大学に入ってから、「草枕」や「虞美人草」を読むという具合に、かなりのんびりとした青年期を過ごしました。なんといっても読み易いのが漱石のいいところです。

出産の前後、奥さんの実家の新潟になんどか行き来した関係で、車中、久しぶりに草枕を読んだのですが、文字なのに風景を喚起するとでも言ったら良いでしょうか?すごいと思いました。かなり衝撃的だったのであと何回か読もうと思います。

こうして勝手知ったる本をなんかのきっかけで再読するのはいいことだとです。漱石なんか全作品軽く三回転はするくらい読んだはずで、筋も暗唱できるくらいだったのに、それでも改めて読むと気づく事があります。これは印象的でした。

今回思い至ったのは漱石は女子を描くのがすごく下手なことです。

小説でも内心を吐露するのは男ばかり、女子はと言えば、与えられた台詞棒読みといってもおかしくないくらいです。若い頃は気づきませんでした。一方、最近の小説なんか他我の境が無くなる世界を日常と対比させている訳で、これと比較すると漱石の女心への無関心さというのは良くも悪くも時代を感じます。

漱石は言文一致の日本語の記述法を発明したとか言われてて、「こころ」なんていう不定形な概念が万人に備わっているものだと描ける様にななった のも、言文一致の言葉の通り、当時の話し言葉を文章化することに寄ってはじめて可能になったとされています。この様な手法により、人の内面や人からみた風景が生き生きと読者の中に再現されることになります。いわばこれが日本の小説の起源であり、小説が大衆性を獲得する契機になりました(多分)。

今回気づいたのは、書かれてることをその通り追うのではなくすこし引いたところからみていると、女子が人形の様に描かれていて意外だということ。これまで表現されていることを追いかけるのだけで満足してた訳ですが、舞台の作り方に結構大きな欠落というか選択があったことに気づいた訳です。近代の人間観、それなりの 時代性の中にあるんだな。

いずれにせよ、草枕の映像的な描写 や こころに書いてある様な主人公の感情(実際は死んだ先生の感情)の起伏がもう100年近くも前に書かれた小説から今でも感じることができるというのは、ものを見ること考えることが、実はそれを言い表すことと表裏一体になっていることの良い例だし、この様な意味では100年ほど書き表す技術はそう進んでないかもなあと思った次第。

平明さから複雑なものを表すというのはとても大事。仕事なんかでは時折力技を使いますが、小説読んでると長い時間に堪える仕事のヒントが垣間見えます。仕事ではどんどん考えて形に落とし込んでいく訳ですが、本を読むのはまったく正反対のことと言ってよく、よい充電になりました。

追)長女は「みどり」ですが、村上春樹の小説の登場人物という訳ではありません。


2009/09/03(THU)
2694)居ずまいを正し
仕事の合間に最近よく文章を読みます。

なんでかよくわからないけれども、居ずまいを正してビシっと本を読むのはとても気持ちが良いものです。こういう力は世の中の流れが早くなると失われてしまい易いけれどもとても大事なことだと思います。

デザインや設計というのもこれに近いだろうな と 思うとともに、気ぜわしく生きる事でこういうことに時間を振り向けることが出来ない人も多いのだろうとも思います。

過日、打ち合わせの帰路、ライフアンドシェルター社の松野君 と ウェブデザイナーのKさんと飲んだのですが、たまたま僕が建築批評が上滑りしてるんじゃないかなんて話をして、あたらしい諸相を記録するだけで、その価値判断をしないのは批評ではないなんて言い切った際、どこからどういう流れか、失語症の様になってしまって、リテラルな水準の組み立てができないよねぇ、最近の若者は等というオチがつきそうになったのですが、これはさにあらず、おそらく、それは僕らの世代の問題でもあろうと思いました。

僕自身は若い頃から生意気な奴でしたが、僕が学生の頃には、不完全で突っ込みどころ満載の雑な議論にもつき合ってくださる恩師がいた様に思います。簡単に言えば捨てる神あれば拾う神ありという具合で、物事をはっきり言葉にすることで対立する相手もいるし、そのことを評価してくれる相手もいました。

では、今の状況はどうかと言えば、ひょっとすると僕らは若い芽をつんでしまう態度をとってしまっているのかもしれません。だから、たぶん居ずまいを正して黙々と本を読む様な姿勢も大事だと自分で思える様になったのかな?とも思います.読み応えのあるものとは、その実、いくつもの意味をどんどん掘り下げていける様なタイプのものであろうと思う秋の夜である(202).


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