過去のコラム

2003年9月以前

2008/08/21(THU)
2454)ディテール
過日、彰国社の連載のインタビューを受けました。東洋大の内田先生がインタビュア・執筆です。本日そのゲラを確認させて頂いたのですが、やはり建築家というのはこういう文章を書かなければいけないなと感じ入りました。とても大切なことを教えていただいた気がします。

もちろん、新しい可能性を探す為に曖昧な言葉の束から自分なりの意味を探し出す様な書き方も理解できますが、僕は今回の様などちらかといえば、作品の背景が明瞭に伝わる様な文章が好きです。

以前、LEDのかなり長い文章を書かせていただいた時も、リサーチ7割、分析2割、私見(結語)1割という感じでした。何故、フィールドワークとその分析に大半の時間をかけるかというと、こうした手続きを経ることで、その都度目にする状況から感じた様々なことが、ある種の普遍性を帯びる様に思うからです。知ることは書くことを通じて思考の形となって、他者に感受されるものとなるのでしょう。この為に、謙虚に耳を澄まし、ある種の普遍性を帯びるまで内容を整理する、これは大変なことですが、振り返るとこういうことしかその都度自分が感じ、考えたことを自分自身も知る由が無い様にも思います。

文章も建築もプロダクトもすべて、感じ、知り、表すことなので、これからもこういったことを大事に仕事をする勇気を頂いた様な気がします。

さらに言えば、こういう過程を経て出来上がった物が、以前からそこにあった様に、さりげなく生活にとけ込んで行くのが僕の理想です。意外だと思われるかもしれませんが本心(202).


2008/08/15(FRI)
2453)きりぎりす
お盆となり、街はとても静かです。

今年の暑さは例年より厳しく感じられ夏バテ気味。仕事場は公園に面しているのは既報の通りですが、朝から晩までセミがうるさく鳴いています。

階段室のところでタバコをすっていたら(本当はいけないのですが)、キリギリスを発見。娘にみせてあげようと思いものすごく久しぶりに虫取りを試みましたがとても素早く苦戦しました。なんとか掴まえて娘に見せるものの都会育ちなのでこういうのをみるのが初めてなのか?おびえてしまいかなりがっかり。タッパーかなんかに孔をあけて家でしばらく飼ってもいいかな?と思っていたのですが、放してあげることにしました。虫の命は短いのでその方が良いと思ったり。

以前、松野夫妻と北海道でワークショップの講師を務めた後に、松野家の愛娘のニコとアルテピアッツァ美唄に行き、トノサマバッタだったかキリギリスをとってあげたときも、本人パニックになろうかという位大泣きしたのを思い出しました。

僕は僕で都会暮らしが長くなってしまったせいか、大分虫取りがへたくそになってしまっており、都会育ちの子供二人のことを偉そうには言えません。

子供のころは学校帰りにバッタなんか見つけようものならそれこそ草むらの中までずいずい追っかけていったものですが、数年ぶりになんの前触れもなく再会したキリギリスは、近くでみると、怖い様な美しさ。羽根が極限まで薄くて、身体は半透明に輝いていて、髪の毛程の太さの脚や触覚が器用に動いています。羽ばたくというよりは、空を滑る様に飛び、その様子が何故か空中で静止している様に見えました。およそ人が作ったものでこれほど美しいものがあろうか?という気持になります。

掴まえようと何度か手をだすものの逃げられ、ようやく手が届きそうになったとき少しためらいました。触ると噛まれるかも、、という様な、なにか心の根っこの部分からの怖さの様なものを感じました。見た目の美しさから感じた怖さなのか、あの奇妙なうごきから来る怖さなので、言葉にし難いためらいです。

わずか十分くらいの出来事でしたが、犬やネコならともかく、昆虫は大都会にあっても、僕らの生の対局というか、自然の一部なんだなあと思いました。言葉にすると陳腐ですが、僕が感じた奇妙な怖さやその美しさは「自然への畏怖」の様な感情なのかもしれません。これに比べると田舎の田園風景はただ優しい景観という気がします。恐らく、人の手が加えられているからなのでしょう。きりぎりすに感じた怖い様な美しさは、なにか人をひきはなした様なものです(202).


2008/08/12(TUE)
2452)いいこと・わるいこと
下記したGoogle ストリートビューについて、いろいろなコメントが寄せられているらしい。その多くはプライバシーに関すること。自分が写っているとか、一般の人の日常生活が写っていることへの違和感がわかならいでもないが、こんなコメントもあった様で、少し考えさせられた。

以下引用

 「お願いですから、(中略)日本の路地の様子をストリートビューから外していただけませんか」 こうブログで痛烈に批判したのはマーケッターでネットビジネス起業家の樋口理さんだ。樋口さんは、「公道からの風景だから公開を前提としているはずだ」ではなく、「公道を通る者はその鼻先の生活空間はのぞき込んではいけない」というのが日本の都市生活者のモラルだとして、グーグルが直ちにこのサービスを止めるよう訴えている。(出展:http://www.excite.co.jp/News/it/20080811/JCast_24982.html

この人が一体何者かはしらないけれど、論点が明快である。

Googleのサービスは簡単に言えばグローバリズムの価値にもとづいている。ありとあらゆる情報を電子化して、瞬時に正解中どこからでも必要な情報にアクセスできる様にする。しかし実のところ、この種のサービスは巧妙にローカライズされている。欧米の街路と日本の路地はその意味合い・使われ方がまったく異なるというのは建築やまちづくりの勉強をしたことがある人であれば周知のことで、上述の指摘もまた日本の文化を引き合いに出して、そのサービスのローカライズを迫るものと言えるだろう。

今起きている事象と似た様な事例が実は日本も何度か経験していることに思い至った。それは西欧化とか近代化と和様化の問題だ。遣唐使が伝えた大陸文化を長い年月をかけて新しい様式に洗練していくという様な大昔の話だけでなく、戦後のモダンデザインの伝来の件まで沢山の例がある。

モダンデザインに関して言えば、今でいう「情報化」が当時は「工業化」だった訳。その中で、欧米の素材/使い方の慣習とは異なる土壌で様々な独自性のあるプロダクトが生まれた。グローバリズムに抵抗するローカルという程対立的なものではなく、寧ろ、その当時なりのグローバリズム(工業化/大量生産/...)という手法を用い、却って文化的な差異が際立つ製品が沢山生まれたとも言える。ぼくはこれこそデザインと呼ぶべきだと思う。それは、標準化と個別性のせめぎあいを解消しようという意識のあり様に関してである。これに対して、最近、地域振興の一貫で地方とものづくりを!地域に即したデザインを!海外でばんばん売りましょういう動きがあるけれど、これは個別化とはまったく逆で日本中で似た様なものしか出てこない仕組みだと思う。

Googleのやっていることは標準を作ろうという強い意志の様なものだろう。だから個別性が浮かび上がってくる。だからこのこと自体は悪いことではない。むしろ、過去の例から考えると、変化に晒されることで個別性が浮かび上がり、標準的(グローバル)なものと個別的(ローカルなもの)の新しい関係性を生む起爆剤になるのではないかと思う。

日本であるいはデザインに関わっていると戦後のモダンデザインというのは金字塔なので、どうしてもここを起点に考えてしまっているのかもしれないし、当時のデザインは敗戦国が欧米の文化を取り入れて、その国の文脈をデザインに翻訳したという様な、欧米からの上目線で国際的に評価されていたと言えないことも無い。しかしいずれにせよ、こういう大きな対立項が見えないときにただこぎれいなものをつくるのは、デザインの名をかりた工芸でしかないのではないか?と思うし、デザインする人間が一方的にデザインの文脈で定石化された考えのみで状況に向かうのでは限界がある様に思う。

だから、標準化に対して個別性を論じるところから、一歩踏み出て何ができるかという問題をデザインの問題にしなくてはいけないのだろうと思った。都市と地方/グローバルとローカル等々、それぞれ分かり易い言葉の関係に置き換えてしまうだけだと、結局のところ、考える前に手をうごかしてあとづけでその意義を論じるからおかしなことになる。デザイン振興なんていうと、さらにこのおかしなあとづけの論理を制度で補強するだけなので、つまらないものしか出来ないんだなと思った(202).


2008/08/08(FRI)
2451)強化ガラス
強化ガラスのサイズ等各所に問い合わせていたのですが、

ガラスは対角線で250mm以上ないと強化に加工できないことがわかりました。結局町場のガラス屋さんも強化は外注なので、大本の工場の持っている炉等のサイズで製作サイズが決まってしまう模様。今回は資材なので、有名所の特殊ガラスメーカーに御願いするまでも無い訳で、サイズを見直します。

ここまで書いてガラスメーカーのカタログをみてみたら製作サイズ書いてあった。灯台もとくらし、各位、お騒がせしました(202).


2008/08/06(WED)
2450)Google
ストリートビュー機能が追加されたと聴き覗いてみました。

これまで地図というのはその実そんなに情報量が無かったのだなという事を痛烈に認識しました。東京は細い路地が無数に走っている訳ですが、その複雑さが視覚的にそのまま表示される様子は驚きです。

これは僕の好きな某有名建築(202).


2008/08/04(MON)
2449)赤塚不二夫氏逝去
新聞で知りました。ご冥福をおいのりします。

ウナギイヌ、レレレのおじさんとか、めんたまつながりのおまわりさん(ホンカン)とか、ナンセンスで好きでした(202).


2008/07/26(SAT)
2448)ホームページ
友人で一緒にファクトリープロジェクトも共同主宰している建築家の松野勉さんのホームページがリニューアルしてました。

http://www.lifeandshelter.org/

僕も細かい仕事がたまってきたのでお盆くらいにこつこつホームページ直そうと思います。

さて、仕事(202).

※つうか君ね、写真に僕のクレジットいれんでいいよ。>ben君


2008/07/25(FRI)
2447)カトリスタンド
コップを組み合わせて写真をとって頂きました。

かなり苦戦した模様。ステンレス球面は写真にとりづらい様です。とても小さいし、、、、涼しげな製品なので夏が終るまえに公開せねば(202).


2008/07/24(THU)
2446)月刊「杉」
僕も会員になってメイルマガジンを拝見しています。

http://www.m-sugi.com/backnumber_all.htm

活動も三年となり、印象に残った記事のアンケート?が送られてきました。
景品の写真をみてびっくり。いつかは僕もこういうのを作りたいなと思っていたので先を越された様で悔しいです。南雲さん(?)すごいや。

おそらく小片材をルーターかジグソーで適当にきってからバレルで丸めているだけのものだと思います。人為とエージングの度合いの様なものが美しい。機能まったくないけど、川辺や海辺をあるいている様になります。まさに僕のツボ(202).


2008/07/22(TUE)
2445)流行廃れ
現代美術のギャラリーで

・壁や布にペンキがはじける様に塗り付けられていたり、
・気や金属を片っ端からたたき割った様なものがぐしゃっと置いてあったり
・粘土や木切れを無作為に造形した奇妙な形のものがあったり

する。だいたいそれらは「無作為」で「ありふれていて」しかしながらその場にあるのが異様なものであることが多い。時々こうしたものがはっとする様な(人為で作るのは難しい様な)ある種の現象を定着していて美しいなと思うこともある。

くわしく眺めてみると、この様な素っ気なさや異様さが実は物としてかなり巧妙に細部まで制御されていることが分かる。自転車の廃品を使う時は、最先端のアルミフレームなんかはまず使わず、駅前に放置されているママチャリの様なものを使うし、材木も流木みたいやつとか、まあわびさびみたいなもんだ。そうこう考えてみると、こうした作品はある考えを表記するというより、ものの記号性を操作する様なものの様に思われてくる。と、同時に、その記号性をなんだか無批判に受け入れてものの関係性として洗練させていくだけの様にも思われ、一度眺めると二度三度眺める様な気分にはとうていなれない。

こうした異形の廃材の塊の横にはきまって、制作風景の動画の様なものが繰り返し再生されていてがっかりしてしまう。

日常を疑う?べき作品が、映像の時間性の様なものを無批判に受け入れてしまっている様で気持悪い...と、いうより、こういう対置のありかたは、もはや現代芸術の古典だと思うのでやめて欲しいなあと思う(202).


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shiromuku(hu1)DIARY version 3.04